男の料理の真髄は 神髄であり、心髄でもある

萩原章史 男の料理

分厚いTボーンステーキにテンションが上がる!

男と女は違う
優れた男は縄張りを持ち、自らの群れを形成する。群れを率い、群れを守るためには、フェアプレー精神とチャレンジ精神と犠牲心は必須。
そんな男の饗(もて)なしは、母性由来の給仕と異なり、自己表現の料理であり、空間の創造と言える。
優れた男には、原始時代から人が持っていた本性も強く顕われる。
与えられるよりも、与えることに喜びを感じ、己よりも他人の喜びを優先する。

『自分が楽しみたい』『自分の食欲を満たしたい』が優先する、利己的な欲求は、立派な男の利他の欲求とは全くの別物。

男の饗なし、則ち馳走は、文字通り、韋駄天のごとき健脚と力を発揮し、食材調達・調理・饗応を、気配りと機智で満たすのが真髄だ。

男の料理は特別なことではない

当然だが、男は女より肉体的に力が強い。
料理人は圧倒的に男が多いことから推測して、男が料理をするのは、理にかない、自然な姿なのかもしれない。

男のまな板は大きくて厚い

だから、男にとっての料理と饗応は、極めて原始的な人間本性からの欲求だと思う。
言ってみれば、種族保存という最優先課題を実現するための最重要要素である、狩の獲物や農作物の収穫や釣果に対する、喜びの延長線上にあるとも考えられる。
言い換えれば、ボス猿的なリーダーシップの自己顕示行為の一面とも言えるだろう。
男が食材を手に入れ、調理して、家族や仲間に振る舞うのは、男の性に刻み込まれているのだ。
それをやらないのは、如何にも男の人生をつまらなくしている気がする。

肉塊と呼ぶに相応しい強敵!

日本人の神人共食の考え

さらに、日本人は神道の神人共食の考えがある。
神様が召し上がったものを、人が共に食べることで、神様の力を分けて頂くという考えだ。
ご馳走や大切な食材は、先ずは神様に召し上がって頂き、皆でお下がりを食べる事を重要視してきた。
つまり、直会の存在だ。
神事としての祭に加え、直会が祭りの楽しみなのは日本人なら当然。
本来、おせち料理だって、お雑煮だって、神様のお下がりが由来だ。

ご馳走といえば神饌

神様にお供えする神饌には、米と日本酒は欠かせない。
白酒、赤酒、黒酒と種類はあるが、日本酒を嫌いな八百万の神様はいないと言っても過言ではない。
昔から、日本各地には大麻が自生し、日本人は繊維をしめ縄や漁具、種は七色として大麻を利用してきたが、何故か?大麻またはアヘン中毒はほとんどない。
理由は美味な酒があったからという説があるが、それだけ、酒は素晴らしく、かつ貴重で、日本人のご馳走と供宴に欠かせないものなのは間違いない。

THE お神酒

昔は全国どこでも、氏神の様々な祭りに携わり、盛大な直会に参加したものだ。
それが、都会に移り住み、そうした機会が激減したのは事実である。
だから、今の日本人が無意識に神様との接点が恋しくなっても不思議ではない。
千数百年間、日本人は様々な神を信じて、敬い、畏怖の念を持ち、大切にしてきたのだから、そのDNAが今の日本人の心のどこかにあるのは自然なことだ。
つまり、ご馳走を振舞う行為自体が、何故か儀式的なのである。
必ずしも畏まる必要はないが、御馳走を家族や仲間と共に食すのは、実に特別感があり、一体感もある。

祭りは神様と一体になる特別の空間

日本人の祭り好きは筋金入りだと思う。
何と言っても、日本人の精神文化の基本は、一神教ではなく、八百万の神様。
当然のこと、色々な神様との関わりを持つのは普通だし、何かにつけて、縁起を担ぎ、季節や暦に基づくイベントが好きで、それぞれに、あれを食べる、これを食べるみたいな風習や決めごとある。

だから、男が地域社会や家庭内で実権を握っていた時代は、男がもてなし料理を決めて、もてなしを采配するのは当たり前だったとも言える。
実際、由緒ある古い神社では、神事に関係する料理(神饌の準備)は女人禁制の場合も多い。
その当たり前のことを実行することで、男はより強くなり、男らしさを発揮すると思う。
逆を言えば、男がもてなしをしなくなる、または出来なくなるのは、ボス猿的な機能の消失であり、群れ(社会や地域などの集団)における地位の低下を意味している。
だから、男が自ら料理をして振る舞う場を持つことは、男の本能的というか、動物的な競争力の維持や強化に極めて重要なのである。
料理を作ってふるまう男は、強い生命力と男らしさを持っているのだ。
男だったら御馳走を極める

やっぱり鯛は特別!

ご馳走の馳走の語源は、伽藍の守護神である韋駄天(神様)が、仏様のために駆け回って食材を集めたことに由来する説が有力だ。
馳走するとは、主人自らが材料調達から調理と饗応までを、文字通り、走り回り、もてなすことを意味しているわけだ。

余談だが、韋駄天は古代インドにおいては、バラモン教の神でシヴァ(破壊の神)の子とされ、軍神として崇められている。
その名はスカンダ。
さらに、インドまで遠征した古代最強クラスの大王であるアレクサンドロス三世(アレクサンダー大王)を、アラビアではイスカンダルと呼ぶ。
つまり、馳走という言葉を遡って行くと、何と、アレクサンダー大王にたどり着くことになる。
それほど、ご馳走することは、重要なことの証とも言えるだろう。

目出度い料理は基本!

男の料理 ご馳走はテーマが重要

男がご馳走する時にはテーマが必要だ。花見でも、忘年会でも、新年会でも、桃の節句でも、初鰹を食べるでも良い。
何も主題がないのであれば、惰性の飲み会となってしまう。
せっかくの人が集まる機会は明確なテーマがある方が良いに決まっている。
ただ単に腹を膨らませ、酔っぱらうだけならテーマがなくとも良いだろうが、せっかくの馳走を決行するのだから、明確なイベントの位置づけが欲しい。
そうすることで、参加者一人一人の心に、一期一会の感動や記憶や感謝が明確に刻まれる。

男の料理は買い物から

男の料理の分類

では、男の料理はどんな区分けができるだろう?
同じ料理でも、対象や目的が違えば、それは違う意図を持つべきだ。
ただ作って食べれば良いのではなく、相手の心を掴まなければ元も子もない。

真の男の料理は作業ではない。調理ではなく料理だ。
馳走とは、愛情はもちろん、様々な意図や気配りを込めて作るものだ。
そうした思いが料理に練り込まれることで、一層美味しくなり、楽しくなり、嬉しくなり、感動をよぶことすら出来る。
男の料理とは、食べる相手の魂に響くものでなければならない。

妻への食 妻との食
親への食 親との食
息子への食 息子との食
娘への食 娘との食
自分の食
友との食
部下との食
客人との食

そして忘れてはならないのは、手に入れたい(味方にしたい場合もある)と思う人との食。
手に入れたい女性かもしれないし、信長が家康を安土に招き饗応したような男同士の場合もある。
それぞれのシチュエーションで相手が感動するような料理を作り、饗応ができれば、男の料理としては文句なしの合格点。
だから、素材の目利きやイベントの段取りや調理段階や器選びなどで、まごついているようでは、真の男の料理は遠いと言える。
男の料理を極めるには、作業としての調理能力と味を決める味覚と、もてなし経験が必須となる。
場数をこなし、臨機応変に対応でき、もちろん、美酒も用意して、もてなしとしての完成度を高めることは、非常に重要だ。

包丁は男の料理の空間では親友

仮に料理は美味しくても、空間としての完成度が低いと、残念な結果となるのは必定。
男の料理の真髄は神髄であり、心髄を鷲掴みにする食を極める技能は奥深く、真の利他の精神が必須となる。
だから、その域に達すること=男として圧巻のプレゼンス、とも言えるのだろう。

年齢を重ねると、周りの人間も変わる。
自らも老いる。結果的に、生涯、学び続けるしかない。老後という概念は存在するべきではないと思う。
実際、野生動物には老後はない。ボス猿は死ぬ間際までボス猿だ。
さっきまで厨房に立っていたのに、さっきまで談笑していたのに、昇天した・・・そんな人生が男の理想なのだと、私は思う。

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