日本人の食生活に民主主義は不要だ – 男の料理の真髄 第1話

萩原章史 男の料理


何を食べても美味しいと感じられるのが幸せ
舌が肥えると不味いと感じるものが増えるから不幸

そういうことを言う御仁がいる。
人それぞれの考えは自由だけど、私はそうは思わない。
うまいもんを見極める審美眼を磨くために、何でも食べる好奇心で、大変な数の食経験を積み、料理人でもないのに、ものすごい数の料理をしている。
プロの料理人ではないから、原価率を考えることなく、常にマニアックに素材を追求し、瞬間のうまさと季節季節の味の変化と、走り盛り名残の素材の味や食感や香りの変化を楽しんでいる。

万人にうまいもんは無い!が基本。
育った地域で味蕾も違えば、男女でも違う。
歯の健康度合いでも違うし、年齢による胃腸の変化でも違うのは間違いない。
お袋の味の経験でも違うだろうし、酒呑みか下戸でも違う。
朝食なのか、昼食なのか、晩餐なのか、それでも全く「うまい」は違う!日本人の数だけ「うまいの定義」があるとも言える。
ネットで検索して、万人が等しく情報を得られ、予約サイトで予約して、ごく一部の店以外は、お金さえあれば誰でも行けるようになったのは、あるべき姿なのか?
そもそも、食べても価値や作法がわからない人が行っても、幸せになれないと思う。

実際、猛烈にうまいと感じるものは、万人受けしないものが多い。
素材の力を味わう料理は特に数秒の瞬間を味わうものが多い。
寿司屋のカウンターで出された寿司を食べないで、スマフォをいじるような客に、本当の価値がわかるはずがない。5秒以内で食べないと!

添加物に慣れ親しんだ味蕾に、本来の素晴らしい塩梅がわかるはずがない。
だから、誰でも平等に参加できる民主主義的な価値観は、本当にうまいもんを味わうためには不要だと私は思う。
食は数値化できないから、言語や画像や映像で伝える限界がある。
だから、価値を共有できる人間だけの秘密クラブでも良いのだ。

子供に合わせた食卓に私はしない。
子供が食べたいものは作るが、大人が食べたいものを料理するから、当然、違うものを食べることが圧倒的に多い。
稀に子供と大人が一致することもあるが、多くの場合、子供には理解できない料理が多くなる。
それは鍛えてきた舌がうまいと思うものと、7歳児の舌が同じなわけがないから当然だ。

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