竹の谷蔓牛が育まれた歴史背景

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古来から日本において、牛は農耕や運搬などの役畜でした。

その頃は食べることが目的ではないので
“体格が良くて丈夫”、“大人しく利口”、“繁殖能力が高い”
といった特徴を持つものが優良な牛とされていました。

これが強く遺伝するよう固定化したのが「蔓牛」です。
例えるなら重量級の力持ちを大量に輩出できる血筋集団、といったところです。

江戸時代後期1830年頃、「蔓作りの技術」をいち早く確立した地が、
竹の谷(現在の岡山県新見市神郷釜村)です。
最古の蔓と呼ばれる「竹の谷蔓牛」はこの地で誕生しました。

多様性もあり血が濃くなりすぎずにこの系統は現存しています。

詳しくはこちらをどうぞ
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コンテンツに書ききれなかったので、
竹の谷蔓牛が育まれた歴史背景をこちらで補足したいと思います。



竹の谷の歴史は、安永1772-80年の頃、現在の阿哲郡神郷町の浪花元助(初代)に始まります。地方屈指の富を有し、人々の信望もあつく、牛馬を多く飼養し、良牛を買い集め、村内の農家に飼わせていました。その後は長男千代平が父の志を継ぎ、天保1830年、1頭の良牝牛を得て生まれた仔牛が、骨格優美、4歳にして体高4尺2寸(127.3cm)、その妹牛も4尺1寸(124.3cm)※当時の平均で3尺4、5寸(103-115cm)。ともに繁殖用に用いたところ、次々と良牛を生産したことから、「竹の谷牛」の名声を得ることとなりました。(当時の繁殖といえば放牧中雌雄混牧による野交尾でした)選別された牡を計画交配させ、初代に体高良く長命連産な良牝牛を得たこと、これが不良遺伝因子を持たず、優良形質を子孫に伝え、さらに近親繁殖により優良形質を固定させ系統を造成したことが、合理的かつ画期的な手法でした。
その後も、仔牛育成に必要な放牧場の整備や、飼養管理の改善、近隣農家へ同系統牛の飼育奨励で有料牛の散逸を防ぎ、竹の谷蔓の発展に寄与しました。


隣町、阿哲郡千屋村の豪農太田辰五郎(1802-54年)がさらなる発展に貢献しました。田畑持高1000余石、10指に余る鉄山を所有する資産家の長男で、殖産に力を注ぎ、特に畜産に熱心でした。大阪天王寺牛市で仕入れた4尺4寸(133.3㎝)の牡牛に、千代平から買い入れた良牝牛に交配したところ、4尺6寸(139.4cm)もの牡仔牛が生まれ、これを大赤蔓と呼び、繁殖用に供用しました。※現在の岡山県「千屋牛」をはじめその他種雄牛の多くはこの系統と言われています。

当時の牛は良くて2年に1産3年に1頭も生まない牛が普通でした。まず増頭が重要と考えた辰五郎は、より多く子を産む牛を作るため周辺地域の飼育技術を学び、商用で上京する際には牛市を見て歩き、気に入った牛を買って帰ったりしました。この努力の甲斐もあって、元来小型種の千屋牛を「大型、多産、丈夫でおとなしい和牛」に改良することに成功したのです。

1820年頃、異常気象により米が不作の年が続きました。辰五郎は「なんとかせにゃいけん。米ができんとかんな流し(池から池へ泥水を流し砂鉄を精製すること)に皆が力を入れる。荷物を運ぶ牛がもっと必要になるな。牛を増やして売る方法を考えよう!牛は草があれば飼えるし、糞を肥やしに米がよく獲れるようになれば村の暮らしも豊かになる。」と考え、牛の増頭、改良に尽力したのです。

改良が進み、牛市の開催へと繋がっていきます。

こうして千屋地区の牛の頭数は年々増え、天保3年(1832)には千屋で初めての牛比べ(品評会)、天保5年(1834)には第1回の牛市が盛大に開催されるまでに至りました。農民達は産業としての“牛飼い”の確立を大いに喜んだのです。


系統図での管理は大正初期から記録がはじまっているのですが、それ以前のものは存在しません。ここに記載されている初期の牛が第三花山です。今の肉牛用に品種改良が進んだ牛と違い、すらっと脚が伸びています。


千屋牛と竹の谷蔓牛がごっちゃになりそうですが、
要は、岡山で有名な千屋牛のもともとは竹の谷にいた牛が基礎となっているということ。これを千屋という地域でさらに発展させ、日本各地に有名蔓を誕生させたのが太田辰五郎と言う人です。
というお話でした。

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