第5回 祇園社祭神としてのスサノヲ(前篇)

疫病を制御する最強の神 牛頭天王とは何者か ‐ 鈴木耕太郎氏の連載コラム

またしても更新するまでに時間を空けてしまいました。申し訳ありません。
先日、買って半年のノートPCが故障してしまい、失意の底におりました……。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
それにしても、冬の到来を感じさせる寒い日が続いたかと思えば、「……え、本当に11月?」と思うほど暖かい……というより暑い日があったりと、とにかく日々の(あるいは1日のうちでも朝晩と日中との)寒暖差が激しいですね。
ずっと寒い日が続くのも嫌ですが(特に私は冷え症なので……)、こう気温が上下されてしまうのも困りものですね。

このように数日あるいは1日の中での寒暖差というのは、いわゆる季節の変わり目に起きやすい現象です。そして、こうした季節の変わり目は昔から「悪気」が身体に入り込み体調を崩しやすくする、と言われてきました。事実、気温の上下が激しいと不調になりやすいですよね。

勘の良い方は薄々お気づきかと思いますが、こうした季節の変わり目と牛頭天王信仰とは密接に関連しています。この点については、次々回以降に詳しく書けたらと思います。

***************************
さて、前々回・前回と牛頭天王の「謎」について記してきました。具体的には牛頭天王信仰の最大拠点ともいえる京の祇園社(今の八坂神社(京都市東山区))において牛頭天王はどのような存在として考えられてきたのかを追ってきたわけですが、今さらながらかなりカオスでディープな世界に皆さんをお連れしてしまったようで……申し訳ありません。
とにかく、このシリーズ(?)も一区切りとしたいと考え、頑張って書いたのですが、出来上がって自分でもびっくり。

…………長い! とにかく長い!

こんなに長くては誰も読んでくれないとすぐに思い直し、ここ数日は内容を厳選する作業を行っていました(だからといって更新が遅くなって良いわけではありませんが……)。
ただ、それでも8000字程度まで減らすのが限界だったため、前・後篇の2本にわけたいと思います。何卒、ご容赦のうえ、今しばらくのお付き合いお願い申し上げます(一応、前々回・前回の内容をおさらいしていただけますと助かります)。

前回までの簡単なおさらい
前回は、牛頭天王とスサノヲノミコトという、本来であれば別個の神(カミ)がイコールの存在として結びつけられた経緯について、鎌倉時代中期に成立した『釈日本紀』という書物の中に収められている「蘇民将来譚」(なお、前回は「蘇民将来譚」としましたが、「蘇民将来譚」は複数あるので、今回から『釈日本紀』所収の「蘇民将来譚」は『備後国風土記』の逸文(部分的に残されているもの)、略して「逸文」と表記します。ご容赦ください)に触れながらお伝えいたしました(その内容については前回に記しましたのでご確認ください)。
ところが、『釈日本紀』の当該記述を改めて読むと、新たな課題が浮かび上がってきます。以下、前回記した内容を再掲すると

課題1:そもそも『釈日本紀』のこの話(「逸文」)は備後国(今の広島県中部)の話であって、京の祇園社の話ではない。
課題2:武塔神(武答天神)は出てくるけど、牛頭天王なる神は出てこない。
課題3:牛頭天王は登場しないけど、日本神話でおなじみのスサノヲノミコト(アマテラスオホミカミの弟神)は登場する。というか、武塔神=スサノヲ。

となります。
つまり、『釈日本紀』の「逸文」では、京の祇園社(現在の八坂神社)について、ひとことも触れていないのです。それどころか、上記の話には、牛頭天王という神の名前すら確認できません。
にもかかわらず、この『釈日本紀』以降、京の祇園社祭神(牛頭天王)はスサノヲであるといった言説が定着していきます。いったいどういうことなのでしょうか。

写真1 卜部兼文・兼方も神職を務めていた平野神社(京都市北区平野宮本町)[写真提供:吉野 靫氏(立命館大学衣笠総合研究機構プロジェクト研究員)]


卜部氏と『日本書記』知識
そのからくりは、『釈日本紀』の「逸文」に続く記述から明らかになります。
(前回も触れましたが)この『釈日本紀』という書物は「日本紀」、すなわち日本最古の歴史書にして神話でも『日本書紀』の注釈書になります。つまり、『日本書紀』に書かれている内容をもっと深く理解するために編纂されているわけです。

この『釈日本紀』の編纂者は卜部兼方(うらべ・かねかた)。
卜部氏は代々、卜占(占い)を専門とする一族で、神祇官の官僚を務めてきました。さらに卜部氏は主に平野社(平野神社・京都市北区平野宮本町[写真1参照])の神職も兼務していた平野卜部家と、吉田社(吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町)の神職も兼務していた吉田卜部家とにわかれており、この両家が交互に氏長者(一族の代表者)を選出していたともいわれています。

そして、この卜部氏は、いわゆる神事全般に関する幅広い知識を代々継承していたと考えられています。その中に、公で行われている神事や儀礼の起源が記されているとされる『日本書紀』の知識も含まれていました。そのため、全28巻にもおよぶ『釈日本紀』はまさに卜部氏、とりわけ平野卜部家が代々蓄積してきた『日本書紀』知識の集大成的なものと評価できます[※1]。

ところで、『釈日本紀』の編纂者は兼方なのですが、その記述の多くは、兼方の父にあたる卜部兼文(うらべ・かねふみ)が行った日本書紀の講義をもとにしています。つまり、『釈日本紀』は兼文の講義録的な側面を持ち合わせているのです。当然、『釈日本紀』に示される『日本書紀』解釈の多くは、編者の父・兼文によるものといえます(時折、息子・兼方自身の解釈などが差し込まれていたりもします)。

さて、兼文による日本書紀の「講義」がもとになっていると書きましたが、そうであれば当然、「受講生(生徒)」側の人間もいたことになります。その主要メンバーの1人が、前・関白であり、五摂家の一、一条家の始祖にあたる一条実経(いちじょう・さねつね)でした。朝廷の要職を担う彼らは、当然、朝廷が行うべき儀礼の作法からその意味に到るまで頭に入れておく必要がありました。この『日本書紀』講義もそうした一条家側のニーズに応えて開かれたものと考えられます[※2]。
とはいえ、実経も『日本書紀』に関する知識は相当有していたようで、『釈日本紀』の中には、しばしば兼文と実経との問答のようなやり取りがそのまま所載されています。
それは、前回・今回と取り上げた「逸文」にも見られるのです。

写真2 「疫隅国社」の後身との説もある素戔嗚神社本殿(旧・江熊天王社。広島県福山市新市町)[写真提供:福山あしな商工会]


兼文と実経との問答
それでは、具体的に兼文と実経とはどのようなやり取りを行っているのか。
『釈日本紀』では「逸文」が一通り紹介された後に、2人の以下のようなやり取りが残されています。

兼文「この話(逸文)は、京の祇園社の由来となっております」
実経「祇園社に祀られている三柱の祭神とはどのような神なのか?」
兼文「この話では、武塔天神とはスサノヲノミコトを指します。少将井は本御前といいます。(スサノヲの妻)クシイナダヒメのことでしょうか。南海神の娘は今御前のことでしょうか。」[※3]
実経「祇園というのだから、その神は異国神ではないのか?」
兼文「スサノヲは初め新羅国に降りたってから日本にやってきたと『日本書紀』にも記されています[※4]。そのため、異国神だという説があるのではないでしょうか。祇園の神は疫病を広める行疫神です。(その祭神である)武塔天神の名前は世の中に広く知られるところですが、この話によると「私(武塔天神)はスサノヲである」とあります。真のことでございましょう。祇園御霊会の際、四条京極の御旅所で粟飯を神に供御しますが、それもこの話にある蘇民将来の因縁なのです……(以下、略)」

 
繰り返しますが、この「逸文」には京の祇園社のこと、その祭神である牛頭天王のことなど一切触れていません。むしろ、京から離れた備後国の一神社の由来譚ということになっています[※5]。にもかかわらず、兼文はいきなり「この話は祇園社の由来譚」だと断言するのです。

私も一応、研究者の端くれですが、仮に現在、私がこんなことを言い出したら「何を根拠に言っているんだ」「論理的に説明しろ」「それでも研究者か」と諸方面から袋だたきにあうでしょう。つまり、現在的な視点からすれば、兼文の説明はあまりに飛躍がある、突飛な説でしかないのです。
実経もまた、やや疑問に思うところがあったのではないでしょうか。「祇園社の神は異国神ではないのか(本当にスサノヲなのか)?」と尋ねています。
いったい、なぜ兼文はこうした結論に到ったのでしょうか。実はここに大きく関わってきているのが、スサノヲという神の存在です。

***************************
今回はここまでとさせていただきます。次回(後篇)は来週の更新になるかと思います。
それでは、皆様、時節柄、お身体に十分ご自愛ください。

写真3 「疫隅国社」の後身との説もある沼名前神社本殿(旧・鞆祇園宮。広島県福山市鞆浦町)[写真提供:沼名前神社]


(補注)

[※1]岡田莊司「卜部氏の日本紀研究」(『国文学 解釈と鑑賞』64巻3号、1999年)

[※2]詳しくは上記[※1]岡田論文に加えて、拙著『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年)の第2章第4節(pp.108-118)に記しています。

[※3]武塔天神=スサノヲというのは、『釈日本紀』の「逸文」に記されています。また南海神の娘も「逸文」では、武塔天神の妻として示されています。問題は少将井と本御前という存在で、どちらも「逸文」には登場しません。謎が多い存在ではありますが、少将井は、当時、祇園社の三基の神輿のうちの一基が祭礼時に安置された御旅所の1つなので、その神輿の祭神=少将井と呼ばれていたとが推察されます。そして、それを南海神の娘とは異なる武塔天神=スサノヲの妻(それも、クシナダヒメという本妻)にあてたものと考えられます。

[※4]『日本書紀』巻第1第8段では、確かにスサノヲは新羅国に降りたってから日本へ渡ってきたと記されています。

[※5]なお、この備後国の一神社(疫隅国社)については、現在の広島県福山市新市町にある素戔嗚神社(旧・江熊天王社[写真2])、または広島県福山市鞆浦町にある沼名前神社(旧・鞆祇園宮[写真3])のいずれかがその後身ではないかと説かれています。どちらも中世には牛頭天王を祀っていたと考えられ、その意味では京の祇園社ともつながりがあったとも推定できるのです。ただ、平安時代中期に制定された『延喜式』の巻9・10、通称「延喜式神名帳」(国家が管理する官社=式内社一覧)の中には備後国深津郡(今の福山市付近)に「須佐能衰(すさのを)神社」なる神社名も確認でき、古くから牛頭天王ではなくスサノヲそのものを祭神として祀っていた神社が存在していたことも事実です。
はたして、旧・江熊天王社がその須佐能衰神社なのか、あるいは旧・鞆祇園宮がそれなのか、はたまたこの2社とは別に須佐能衰神社が存在したのか、断定することは難しいのですが、備後国のスサノヲ信仰、ないし祇園社の影響については今後も検討していく必要があります。

写真1 卜部兼文・兼方も神職を務めていた平野神社(京都市北区平野宮本町)[写真提供:吉野 靫氏(立命館大学衣笠総合研究機構プロジェクト研究員)]

写真2 「疫隅国社」の後身との説もある素戔嗚神社本殿(旧・江熊天王社。広島県福山市新市町)[写真提供:福山あしな商工会]

写真3 「疫隅国社」の後身との説もある沼名前神社本殿(旧・鞆祇園宮。広島県福山市鞆浦町)[写真提供:沼名前神社]

※写真はすべて許可を得てご提供いただいております。


コラム連載の著者略歴
鈴木耕太郎
1981年生まれ。群馬県 旧勢多郡大胡町(現・前橋市)出身。
立命館大学文学部、同大学院文学研究科修了。博士(文学)。
専門は国文学(特に中世神話研究)・宗教民俗学。
卒業論文時より一貫して牛頭天王信仰に関連するテキストの分析を研究テーマに据えている。
日本学術振興会特別研究員(DC)・京都西山高校国語科非常勤講師・京都西山短大非常勤講師を経て、2018年より公立大学法人 高崎経済大学 地域政策学部 講師。
近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。

関連記事

特集記事

アーカイブ
TOP