牛頭天王と祇園天神
やや肌寒くなってきたものの、いまは秋。
天高く馬肥ゆる秋。
芸術の秋、スポーツの秋、そしてなにより食欲の秋。
まだまだ世の中は「疫病」の流行がおさまりませんが(そして時期的には例年やってくるインフルエンザという「疫病」も到来しそうなのですが)、せめてご自宅等で食欲の秋は満喫したいものですね。
さて、なんだか月1連載のようになってしまっていますが、前回(https://umai-mon.shokubunka.co.jp/blog/archives/37826)のお話のつづきとなります。
ちょっとだけおさらいをしてみましょう。
前回は京都にある八坂神社――旧称・祇園社の祭神としていつ頃から牛頭天王が祀られたかを記してみました。
残念ながら、いつから牛頭天王が祭神となったのか、その具体的な年代は把握できないわけですが、とりあえず牛頭天王なる神の名は平安時代後期に成立した『本朝世紀』に確認できる、と記しました。
ところが、ここに1つの問題が生じます。『本朝世紀』よりも1世紀ほど早くに成立した『扶桑略記』には、同じく祇園社祭神のことを「天神」と記してあるのです。牛頭天王と天神、どちらも祇園社祭神とされているこの両者の関係はいかに……?
というところで前回は終わりました。ややもったいぶった終わり方でしたが、早速、その関係を述べていきましょう。
牛頭天王と天神との関係。
それは…………
よくわかっていません。
……いや、これはさすがに語弊を招く書き方ですね。すみません。
よくわかっていない、というよりも、今なお学説が割れている、といった方が正確でしょうか。
簡潔に申し上げますと、大きく2つの学説が提示されているわけです。
(1)最初から祇園天神=牛頭天王という認識が浸透していた[※1]。
(2)当初は祇園天神という別の神が祀られていたが、次第に牛頭天王なる新たな神が祇園社に入り込み、いつからか祇園天神=牛頭天王となった[※2]。
この2説の詳細は省きますが(できれば[※1][※2]であげた論文を各自で確認していただけますと幸いです)、どちらも一理あってなかなか決しがたいところです。
いずれにせよ、『本朝世紀』が成立した以降は、具体的には11世紀以降は祇園天神=牛頭天王という関係で理解されていただろうとは推察できます。
牛頭天王と武答天神/武塔神
さて、11世紀頃には祇園天神=牛頭天王という関係性ができあがったわけですが、ここから祇園社の祭神に対する呼称はさらに複雑な経路をたどります。
まず見てもらうのは、前回のコラムでも取り上げた十巻本『伊呂波字類抄』の「祇園」です。以下は前回の再掲となりますが、
牛頭天王の因縁は、天竺より北方に国有り。其の名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。其の城に王有り。牛頭天王、又の名を曰く武答天神と云ふ(後略)
この箇所の特に今回は下線部に着目してください。そう、ここでは牛頭天王は「武答天神」なる名称でも呼ばれていたことが記されているのです。
祇園天神ならぬ武答天神。
いったい、この武答天神とはどのような神なのでしょうか。
そのヒントとなるのが、第2回(https://umai-mon.shokubunka.co.jp/blog/archives/37196)でも取りあげた『釈日本紀』の中の「蘇民将来譚」にあります(蘇民将来譚についても、第2回コラムを参照のこと)。以下、ちょっと長くなりますがその概要を載せておきます。
『備後国風土記』によると、疫隅国社の祭神とはその昔、北海にいらっしゃった武塔神である。この神が南海の神の娘と結婚しようと旅に出たところ、途中で日が暮れてしまった。そこに「蘇民将来」と名乗る兄と弟がいた[※3]。兄の蘇民将来は大変貧しく、弟の方は裕福だった。武塔神は最初弟に宿を借りようとしたが断られ、次に兄に頼んだところ貧しいながらに精一杯もてなしてくれた。そのお陰もあって、武塔神は無事、南海神の娘と結婚し、八人(八柱)の皇子たちを引き連れて、再度、兄の蘇民将来のもとへと帰ってきた。そして、「私はお前の弟に復讐するつもりだ。お前の子孫があいつの家にいたりはしないか?」と尋ねた。蘇民将来は「私の妻と娘が弟のもとにおります」と述べた。すると武塔神は「茅の輪を作り腰につけさせよ」と述べた。蘇民将来はそのことをすぐに伝えると、その日の晩に蘇民将来の娘1人を残し、弟将来の家の者はみな滅ぼされてしまった。そこで武塔神は、蘇民将来の娘に「私はスサノヲノミコトである。今後、この世に疫病がはやったとき、「蘇民将来の子孫」と書いて茅の輪を腰につけていれば、疫病の災厄から逃れることができるだろう」と告げた。
以上が『釈日本紀』に記されている蘇民将来譚です[※4]。
「あれ、弟のもとにいた娘だけ助かったっていうけど、同じく弟のところにいた蘇民将来の奥さんは?」
と思った方。鋭い(笑)。この辺の解釈もいくつか見解が分かれているのですが(つまり、奥さんも当然助かったという説[※5]と、残念ながら助からなかったという説[※6]とにわかれるのですが)、今回の本筋からは外れるのでここでは触れません。
武塔神/武答天神=牛頭天王?=祇園社祭神??
とりあえず、先に見た内容から、武塔神という神は
・北の海の神である(日本の神といえるのかが大変微妙)。
・南海神の娘と結婚し、八柱の皇子をもうけている。
・一夜にして、多くの人間を滅ぼすことができる。
・実はスサノヲノミコトである。
・世話になった蘇民将来の「子孫」は、疫病から庇護する。
といった特徴がある神だということができます。
そして、この「武塔神」と先の十巻本『伊呂波字類抄』の「武答天神」、どちらも同じような名称であることから、同一の神だと考えることができます。
つまり、どういうことかといえば、
武塔神/武塔天神=牛頭天王=祇園社祭神
という関係が成り立ちます。そのため、先にあげた武塔神の特徴はそのまま牛頭天王の特徴だといえるのです!
……とまぁ、このように言い切れればわかりやすいですよね。
ただ、皆様もうすうすはお気づきかと思いますが、先の『釈日本紀』と祇園社をめぐっては、重大な課題が残されています。どういう課題かといえば、
課題1:そもそも『釈日本紀』のこの話は備後国(今の広島県中部)の話であって、京の祇園社の話ではない。
課題2:武塔神(武答天神)は出てくるけど、牛頭天王なる神は出てこない。
課題3:牛頭天王は登場しないけど、日本神話でおなじみのスサノヲノミコト(アマテラスオホミカミの弟神)は登場する。というか、武塔神=スサノヲ。
といったところでしょうか。
つまり、武塔神=武答天神という関係性が仮に成り立つとしても、この話と祇園社や牛頭天王との直接的なつながりは見いだせない、というか、率直にいえば「無関係」のように映るわけです。
ところが、こうした一見すると「無関係」に思える『釈日本紀』の話と祇園社とを直接結びつける言説が出されます。
その言説がどこで出てくるかといえば、実は先ほど確認した蘇民将来譚の直後に出てくるのです。そして、その言説を述べているのが、『釈日本紀』編者・卜部兼方の父にあたる卜部兼文という人物になります。
この卜部兼文という人物の言説から、祇園社祭神をめぐる言説はさらに展開していくことになるのです。
はたして、どのような言説なのか? そして、卜部兼文とは何者なのか?
と、気づいたらもう3000字近く書いていましたね。
えーっと…………このつづきはまた次回にしましょう(「いや、まだ続くんかい!」との突っ込みには、「すみません」としかお答えできません。すみません……)。
ということで、次回は(おそらく、この一連の話は完結することになると思いますが、というか完結させたいのですが)祇園社祭神言説の展開と定着について述べたいと思います。
……もうしばらくのお付き合いをお願いします。
(補注)
[※1]:中井真孝「祇園社の創祀と牛頭天王」(『法然上人絵伝の研究』思文閣出版、2013年)。
[※2]:今堀太逸「牛頭天王と蘇民将来の子孫」(『本地垂迹信仰と念仏』法藏館、1999年)。
[※3]:なお、『釈日本紀』原文では「その所に蘇民将来、二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮し。弟の将来は富み饒いて屋倉一百ありき。」と記されており、文面通りに解釈するなら、兄も弟も「蘇民将来」だったということになります。ただし、『釈日本紀』以降に成立した他の文献上に見られる「蘇民将来譚」では、貧しく心清やかな蘇民将来と裕福だが慳貪な巨旦将来、というように二人の名前がわけられています。
[※4]:『釈日本紀』巻第7述義3より。なお、この箇所は『日本書紀』巻第1第7段1書第3の場面、つまりスサノヲが天から追放されてしまい、「底根之国」へとおいやられた直後の場面に対する注釈となっています。
[※5]:水野祐『入門 古風土記』下巻、雄山閣出版、1987年。
[※6]:関和彦「『風土記』社会の諸様相――その5 蘇民将来考――」(『風土記研究』第10号、1990年)など。
[写真]:京都 八坂神社 西楼門(重要文化財) 、疫神社 ※八坂神社より掲載の許可を得ています。
コラム連載の著者略歴
鈴木耕太郎
1981年生まれ。群馬県 旧勢多郡大胡町(現・前橋市)出身。
立命館大学文学部、同大学院文学研究科修了。博士(文学)。
専門は国文学(特に中世神話研究)・宗教民俗学。
卒業論文時より一貫して牛頭天王信仰に関連するテキストの分析を研究テーマに据えている。
日本学術振興会特別研究員(DC)・京都西山高校国語科非常勤講師・京都西山短大非常勤講師を経て、2018年より公立大学法人 高崎経済大学 地域政策学部 講師。
近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。