第2回 牛頭天王と食

疫病を制御する最強の神 牛頭天王とは何者か ‐ 鈴木耕太郎氏の連載コラム

牛頭天王と「粗食」
前回から始まった牛頭天王に関するこのコラム。
今回は予告通り、「牛頭天王と食」というテーマで書いていきたいと思います。

前回、この「うまいもんブログ」のなかで、なぜあまり関係のなさそうな牛頭天王なる怪しげな神についてコラムを連載するのかご説明させていただきました。
つまり、牛頭天王と「うまいもん」――両者に直接的なつながりはないけれども、人間が「健康に生きる」うえではどちらも重要、といったことを書いたかと思います。

とはいえ、せっかくここで連載をしているのですから、「うまいもん」と牛頭天王とを関連させて論じたいと思うのが、執筆者としての本心。
ということで、牛頭天王と「うまいもん」から論じていきましょう。
さて、牛頭天王関連で「うまいもん」の話……「うまいもん」、「うまいもん」………。
…………。
………………。
……………………。
ダメですね……残念ながら牛頭天王に関連する話で「うまいもん」を論じることは難しそうです。
ここで

「今回のコラムはここまで」

としたら私も大変楽なのですが、そういう訳にはいきません。

ということで、今回はむしろ「うまいもん」とは真逆に位置するであろう、明らかに「うまくなさそう」な食事――いうなれば「粗食」――に関連させて論じていきたいと思います。
実は、牛頭天王を語るうえで大変重要な事項でもあるのです。
いったいどういうことでしょうか? 以下、詳しく論じていきます。

「牛頭天王縁起」の世界
牛頭天王と粗食。この2つを結びつける話(物語)が各地に残されています。
通常、「牛頭天王縁起」※1と呼ばれているそれらの話は、作成された年代、残されている地域によって微妙に内容が異なります。
実はこの内容の微妙な違いこそ重要なのですが……この点については今回の主題から話がそれてしまうので別の機会に論じます※2。
とりあえず、いまは「牛頭天王縁起」の多くに共通して見られる話のあらすじを追っていくことにしましょう。

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①天竺のある国の皇子として生まれた牛頭天王は、統治者としては大変優秀だったが、いかんせん生まれながらにして恐ろしい容貌であったため、后となる相手がいなかった。

②ある日、牛頭天王のもとに1羽の鳥が飛んできて、沙竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の三女・婆利采女(はりさいじょ)であれば后としてふさわしいと告げ去っていった。

③牛頭天王は家臣・眷属たちを引き連れ、婆利采女のもとへと旅立った。
途中、日が暮れてきたので近くに住む長者の巨旦将来(こたんしょうらい)※3に宿を貸してくれないかと頼んだ。
しかし、巨旦将来は牛頭天王らを邪険に扱い、追い返してしまう。

④今度は近くに住む貧者の蘇民将来(そみんしょうらい)に宿を乞う。
貧しく、家も狭いため恐縮する蘇民将来だが、牛頭天王から気にしなくてよいといわれ宿を貸す。蘇民将来は粗末ながらも敷物をつくり、またなけなしの粟飯を炊いて牛頭天王だけでなくその家来・眷属にもふるまうなど、できる限りのもてなしをおこなった。

⑤蘇民将来宅を出た一行は無事、龍王のもとにたどり着いた。
龍王は牛頭天王を歓迎し、娘・婆利采女との婚姻を許した。
牛頭天王は数年の歳月をそこで過ごし、八人の皇子(八王子)をもうけた。
そして、妻・子どもたちを連れて自分の国へと帰ることとした。

⑥帰路の途中で蘇民将来宅を再度訪問した牛頭天王は、宿を拒否した巨旦将来一族を滅ぼすと蘇民将来に告げる。
蘇民将来は、自分の娘が巨旦将来のもとへと嫁いでいるので、娘だけは助けてほしいと乞う。そこで牛頭天王は、「茅の輪」と「蘇民将来子孫也」と記した札を蘇民将来の娘に持たせておくよう命じる。

⑦牛頭天王に命を狙われていると気づいた巨旦将来は、いろいろな策を練って牛頭天王から身を守ろうとする。しかし、最後は牛頭天王と八王子、そして多くの眷属が巨旦将来の邸宅へとなだれ込み、一族みな滅ぼしてしまう。
ただ一人、生き残ったのが「茅の輪」と「蘇民将来子孫也」と書かれた札を身に着けていた蘇民将来の娘一人であった。

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以上が多くの「牛頭天王縁起」に共通してみられる話(=いわゆる蘇民将来譚)の大まかなあらすじとなります。

「花咲か爺さん」や「瘤取り爺さん」など、昔話でよくみられる「良い爺さん」と「悪い爺さん」が登場する「隣の爺」型の話であり、また不意に訪問してきた客をきちんともてなせば利益が与えられ、逆に追い返してしまうと災厄がふりかかる「大歳の客」型の話でもあるのですが……

それにしても、いくら邪険に扱ったとはいえ、宿を貸さなかっただけで一族共々滅ぼされてしまうとは。何とも恐ろしい話です。
前回記したように、牛頭天王は恐ろしい行疫神(=疫病を広める神)でもあるわけですが、こうした話の中からも垣間見えてきます。

さて、問題となっている粗食ですが、上記④の場面(下線部参照)に記されている「粟飯」がまさにそれにあたります。
いまではむしろ健康食として一部で注目されているようですが、ここでは「白飯」どころか「麦飯」も出せない蘇民将来の貧しさが「粟飯」に象徴されているといえます。同時に、なけなしの「粟飯」を客人に振舞うという蘇民将来の慈悲深さも示されているわけです。

結果として、この「粟飯」の振る舞いをはじめとした一連のおもてなしにより、蘇民将来の娘は命拾いをすることになります。
もし蘇民将来が「粟飯」を振舞わなければ、こうした結果にはならなかった可能性もあるだけに、大変重要な食事だったわけです。

図1 今年の祇園祭における四条御旅所の様子
[写真提供:星 優也 氏(池坊短期大学専任講師)]

八坂神社御旅所と粟飯奉納
牛頭天王を祭神として祀っていた神社の中でも、とりわけ大きな拠点だったのが京の祇園社――いまの八坂神社(京都市東山区)です。
そして、この八坂神社の一大祭礼が、夏の京の風物詩でもある祇園祭(旧称:祇園御霊会)になります。

今年はCOVID-19の影響で規模が大幅に縮小されたようですが(徐疫・防疫を願う祭りであることを考えると、何とも皮肉な話ですが)、本来であれば7月1日から31日までの丸1か月もの間、さまざまな神事や催しが行われ、それを総称して祇園祭といっているわけです。
ただ中世の記録を見ると、旧暦6月7日から15日※4までの間が祇園御霊会とのことで、今よりは短かったようですが。

ところで、この祇園御霊会の神事に関して、鎌倉時代中期に編纂された『釈日本紀』という書に面白い一節がひかれています。
この『釈日本紀』には、現在確認できる最古の「蘇民将来譚」(先に見た①~⑦の話)が掲載されていて※5、そのあとに以下のような文章が記されています。

「御霊会の時、四条京極に於いて粟御飯を奉るの由、伝承す。
是れ蘇民将来の因縁なり。」

現代語訳:
祇園御霊会が行われるとき、四条京極で粟のご飯を神に備え奉る理由を(蘇民将来譚は)今に伝えています。つまりこれは、蘇民将来に由来することです。

四条京極とは京都市下京区の四条通と京極通(今の寺町通)とが交差する地点を指します。この地でどうやら「粟飯」を祇園社の神に供えていたというのです。
いまここには、八坂神社の四条御旅所(しじょうおたびしょ)があります(図1)。
神幸祭の際に、八坂神社を出た三基のお神輿がこの御旅所に1週間ほど留まり、還幸祭で神社へ帰る、というのが例年の神事です。

ただ、この御旅所は『釈日本紀』が記された鎌倉時代から存在していたわけではありません。天正19年(1591)、豊臣秀吉による京の都市改造により、複数あった祇園社御旅所を統合して、この四条京極(現・四条寺町)の地に移転させたといいます。

では、なぜこの四条寺町という地に移転することになったのでしょうか?
さまざまな理由が考えられますが、やはり古くからこの地で「粟飯」の奉納が行われていたことが大きく関係したと推察されます※6。
つまり、この「粟飯」奉納は祇園御霊会において重要な意味を持つ神事だったと考えられるのです。ただ、この「粟飯」奉納は江戸時代まで続けられていたものの、現在は途絶えているようです。

もし皆さまが京都・四条通をめぐる機会がありましたら、ぜひこの四条御旅所の前で粟飯が奉納されていたことを想像してみてください。
もしかしたら、蘇民将来と牛頭天王がぼんやり見えてくるかもしれませんよ。

次回は、「祇園社祭神の謎」と題してコラムを書いていくつもりです。
よろしければまたご笑覧ください。

図2 拙著『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月、税込3850円)

(補注)
[※1]:なお、ここでいう「縁起」とは「社寺、仏像、宝物などの由来、または霊験などの伝説。また、それを記した文書」(日本国語大辞典・参照)を指します。ただ、「牛頭天王縁起」と称されてきた文書のなかには、この定義に当てはまらないものもあります。そのため、私自身は積極的に「牛頭天王縁起」という総称は使っていません。ただ、今回は話がややこしくなるため「牛頭天王縁起」としました。

[※2]:この点については私の研究とも深くかかわってくるため、いつか丁寧にご説明したいと思います(それを望む方がいらっしゃるかどうかは別の話ですが……)。
なお、昨年7月に刊行された拙著(図2)では、そうした差異点に注目した論考を数本、掲載しております。ご興味ある方はぜひ手にとっていただければ幸いです。

[※3]:この「こたんしょうらい」については、「古端将来」「古単将来」などと表記する「牛頭天王縁起」もあります。

[※4]:より正確にいえば、祇園御霊会は旧暦6月7日から14日までで、15日は祇園臨時祭という別の祭礼が行われていました。

[※5]:この『釈日本紀』については、改めてこの場で詳細を書こうと思います。
なお、拙著(図2)の第2章でも詳しく論じています。もしご興味ある方はご一読ください。

[※6]:この点については本多健一「祇園祭における四条御旅所をめぐって」『立命館文學』645号、2016年、pp.287-270。(URL 最終閲覧日:2020年7月31日)を参照のこと。


コラム連載の著者略歴
鈴木耕太郎
1981年生まれ。群馬県 旧勢多郡大胡町(現・前橋市)出身。
立命館大学文学部、同大学院文学研究科修了。博士(文学)。
専門は国文学(特に中世神話研究)・宗教民俗学。
卒業論文時より一貫して牛頭天王信仰に関連するテキストの分析を研究テーマに据えている。
日本学術振興会特別研究員(DC)・京都西山高校国語科非常勤講師・京都西山短大非常勤講師を経て、2018年より公立大学法人 高崎経済大学 地域政策学部 講師。
近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。

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