第10回 五節句と牛頭天王

皆さま、大変、大変ご無沙汰しております。
もうこのコラム、なくなったのかな? と思われていた方が多数かもしれませんが、実に4か月弱振りの更新となります。
いま、手元には6月に作成して途中で終わっているコラムの未完原稿、7月に作成して終わっているコラムの未完原稿、8月に(以下、略)と都合、3本の下書きがあるのですが、どれもこれも中途半端な出来でして……。
今回こそは最後まで完成させて、皆様にお目通しいただけるよう努めます。
どうぞ、お付き合いのほど、よろしくお願いします。
(もはや、このコラムについてぼんやりとしか覚えておられない方は過去のコラムをぜひ、再読いただければ幸いです……)。

菊の節句とお酒
さて、いま、この原稿は9月9日から執筆を開始しました。……現在、9月13日で、実際にこのブログが公開されるのはさらに先になることでしょう。……遅筆なんです、はい。

ところで、9月9日といえば、何の日か皆さんご存じでしょうか?

「救急の日」「世界占いの日」「手巻き寿司の日」「栗きんとんの日」……などなど、どれも正解なのですが、日本で古くから知られているのはやはり、菊の節句=重陽(ちょうよう)ですね。
とはいえ、「え……菊の節句なんて知らない」という方もいらっしゃるかもしれません。
いわゆる五節句の中でも現在、広く認知されているのは
  3月3日:桃の節句=上巳(じょうし)
  5月5日:菖蒲の節句=端午(たんご)
  7月7日:七夕(しちせき・たなばた)[※1]
の3つではないでしょうか。一方、残り2つ、すなわち
  1月7日;七草の節句=人日(じんじつ)
  9月9日:菊の節句=重陽
はどうしても影が薄いように思います(超主観的な見方ですが)。
ただ、1月7日の人日は五節句という認識があるかどうかは別として、いわゆる七草粥を食す日として知られているので、やはり現在では重陽がどうしても影が薄い印象はぬぐえません。その理由はいろいろと考えられますが……ちょっとこのブログの趣旨から大分それてしまうので、今回はこの辺で(苦笑)。

そもそも五節句(五節供)とは、中国に由来する行事で、いずれも身体にまとわりついた穢れ(ケガレ)や邪気などを払うための日でした。というのも、いわゆる陽数(奇数)が重なる重日は、転じて陰の気が立ち込める危険な日だと考えられていたからです[※2]。ちなみに、上記のように今では1月7日の人日が五節句の一となっていますが、江戸時代に入るまでは1月1日(元日)がそのまま五節句の1つとして捉えられていました[※3]。

ともあれ、こうした節句にあわせて何かをしたり、関連する食物を食べたり飲んだりすることがそのまま穢れや邪気を払うことにつながると考えられていたのです(たとえば、5月5日は菖蒲の湯につかり、粽を食べるとか、7月7日はそうめんを食べるとか)。
こうしたことはすべて厄除けの意味合いがこめられている、ということになります(ちなみに、短冊に願いを書いて笹に付けるという習慣は、七夕の日に行われていた乞巧奠(きっこうでん)[※4]がもとになっています)。

では、9月9日・重陽の日にはどのようなことをすれば/食べればいいのでしょうか?
まず挙げられるのが、「登高」すなわち登山です。紀元前5世紀の中国の説話に由来するもので[※5]、日本でも昔はこの日に登山をする習慣があったようです。
そしてもう1つが、菊酒。読んで字のごとく、酒に菊の花を浮かべて飲む習慣です。私も菊酒をいただきました(下の写真参照)。

写真1 2021年の重陽の日に(筆者購入のお酒と菊の花)。
お酒は地元・群馬県の酒造である「牧野酒造」さん(群馬県高崎市倉渕町)の清酒・榛名山。ぐんまちゃんパッケージverです。


写真2 ちなみに、今回使用した土器(かわらけ)はこちら。京都在住時に、八坂神社さん(いわずとしれた、中・近世における牛頭天王信仰の一大拠点)でいただいたものとなります。八坂神社さんの社紋さんが刻まれています。

こうして五節句を行い、季節ごとに穢れ・邪気の類を払っているわけです。

さて、思わず五節句とは何ぞや? という話にまで広がってしまいましたが、ここでこのブログの本題に戻っていきましょう。

五節句=牛頭天王を祀ること?
さて、本題に入る前にこのブログで何度か触れてきた「蘇民将来譚」、読者の皆様は覚えておいででしょうか?
お忘れの方に向けて、本当にざっくり説明すると、以下の①~⑤の流れが大筋になります。

①妻を探す旅に出た牛頭天王は、道中で宿を乞う。
②しかし、富者の巨旦将来(こたんしょうらい)はけんもほろろに追い返してしまう。一方、近くに住む貧者の蘇民将来(そみんしょうらい)は、貧しいながら懸命に歓待した。
③その後、無事、后を娶り、その間に八柱の王子をもうけて再び蘇民のもとを訪れる。そして、巨旦の家に家族はいないかと問い、蘇民は娘が1人、巨旦のもとにいると告げる。
④牛頭天王は、「蘇民将来子孫」と記された茅の輪をその娘の腰につけさせよ、と言うのでその通りにしたところ、巨旦一族は蘇民の娘1人を残し、皆、牛頭天王に滅ぼされてしまった。
⑤そして、今より「蘇民将来子孫」と書かれた茅の輪を持っていれば、後世にあっても疫病の災厄から身を護ることができるだろうと牛頭天王から伝えられる。

ただし、同じ「蘇民将来譚」でも、テキストによってやや話の内容が異なります(以前もこちらで書きましたが、その違いこそテキストの性質、さらにはそのテキストがどのように成立したのか、どのように用いられたかの違いにつながっているので重要なのですが)。

今回取り上げる「蘇民将来譚」は、鎌倉末期から室町初期のあいだにかけて成立したといわれているもので、話の大筋は上記のような流れとなっています。
ただ、細かな描写を丁寧に拾い上げていくと、かなり独自色の強い「蘇民将来譚」であるといえます。というのも、先に見た五節句の由来をそのまま牛頭天王信仰に求める、という内容になっているからです。
どういうことか、以下にその一部の概要を取り上げてみます。一部とは、(先の「蘇民将来譚」でいうところの)⑤の部分に当たります。

⑤´巨旦大王一族を殲滅した牛頭天王は、巨旦の死骸を切断し、それぞれ五節供に配当した。その後、蘇民将来に向かい、今後、濁世末代になれば自分は疫病を広め、三毒・煩悩にまみれた人間たちは苦しむことになる。この病痛を避けたければ、「二六の秘文」を内に秘め[※6]、「五節の祭礼」を行って私を篤く信仰すべきだ、と述べた。
⑥その五節の祭礼だが、正月一日の鏡餅は巨旦の骨肉、三月三日の草餅は巨旦の皮膚、五月五日の結粽は巨旦の鬢髪、七月七日の索麺は巨旦の筋、九月九日の菊の酒水は巨旦の血脈、蹴鞠は巨旦の頭、的は巨旦の眼、門松は巨旦の墓験である。これらはすべて巨旦調伏の儀式である。今の世まで、神事・仏事は皆、これを学んで法例とする。

ここでいう巨旦大王とは、巨旦将来のことを指します。この「蘇民将来譚」では、巨旦大王は魑魅魍魎が跋扈する国の王、という位置づけになっています。このように同じ「蘇民将来譚」でもテキストによって人物(あるいは神)の立場や属性が微妙に異なっていることがわかります(ただ、蘇民将来は相変わらず、貧乏ではあるけれども慈悲の心にあふれた人物として描かれています)。

さて、上記の⑥の部分をご覧ください。
ここは、この「蘇民将来譚」のまさにオリジナルな部分が顕著に表れている箇所になります。すなわち、私たちが毎年、家族や親族と(もちろん、お一人で、という方もいらっしゃるでしょうが)食べている正月の鏡餅は、ここでは巨旦大王の骨肉である、と言うのです。以下、

・上巳に食べる草餅は巨旦大王の皮膚
(この話を読んだとき、巨旦大王って緑色なんだ、と思ったものです)
・端午に食べる粽は巨旦大王の(括っている)髪の毛
(確かに粽って髷のようにも見えますね……)
・七夕の素麺は巨旦大王の筋
(……気持ち悪いですね)
・重陽の菊酒は巨旦大王の(血と)血管
(菊の花が血管をあらわしているのでしょうか?)

などと書かれています。巨旦大王は牛頭天王により一族郎党滅ぼされ、あまつさえ死骸を切り刻まれて、私たちがそれを食べている……なんとも食欲がなくなる話です(苦笑)。
ただ、ここで重要なのは⑥の下線部です。
こうした巨旦の身体を我々が毎年必ず食すことで、牛頭天王により滅ぼされた巨旦大王は調伏(ちょうぶく)、すなわち巨旦大王を制する儀礼なのだといっています。そして、⑤´の末文を見てもらえればわかるように、こうした儀礼を行なうことが、牛頭天王を祀ることでもあり、同時に恐ろしい行疫神(ぎょうやくじん=疫病を広める神)である牛頭天王から身を護る術だと、牛頭天王自身が伝えているわけです。

もちろん、この「蘇民将来譚」が本当に五節句の起源を示しているわけではありません。
まさに五節句由来譚の創作、いや現在の価値観からすれば「捏造」ともいえるかもしれません。
ただ、この「蘇民将来譚」が創作された時代は、現在の私たちとはまったく異なる価値観を人々が持ち合わせていたことは想像に難くありません。むしろ、私たちが「捏造」だと思ってしまうような言説にこそ、その時代の「リアル」が垣間見られるわけです。

誰もが儀礼の「主体者」に
先ほどの「蘇民将来譚」のミソは、結局、誰もが巨旦調伏儀礼の主体者になり得る、ということではないでしょうか。
何気なく行っていた五節句が、実は鬼王・巨旦大王を調伏する儀礼であり、牛頭天王を祀る儀礼でもある――こうした言説に直面したとき、人々は自分が知らなかった「真実」に驚愕したのだと思うのです。
「そうだったのか!」と。

当然、五節句の由来が中国にあることを知っている知識人層も少なからずいたでしょうが、多くの人たちからすれば何気なく行ってきた五節句の意味を、先の「蘇民将来譚」と出会うことで「知る」わけです。

繰り返しますが、現在に生きる私たちにとって、それは「捏造」のように見えますし、それを受け入れてしまう人々は、「無知蒙昧」にも映るかもしれません。しかし、五節句がそのまま疫病除けになると聞いたとき、そこに意味を見出すということの方が当時としては有意義だったのではないでしょうか。
ちょっとうまく言えているかはわかりませんが、純粋に何が真実なのか、を明らかにしたいわけではなく、自分たちにとって何を真実と受け止めたらより生きやすくなるか、というところに重きを置いていたように考えられるのです。

もちろん、こうした「蘇民将来譚」が創られ、流布することで、それまで(牛頭天王への信仰とは関係なく)五節句という年中行事を行ってきた人々は、牛頭天王信仰の枠組みに入れられてしまうことになります。
恐らくはそれこそが狙いだったのでしょう。牛頭天王信仰が人々の間に根付いていった、一つの要因にこの「蘇民将来譚」があったように思うのです。

それにしても、今回取り上げた「蘇民将来譚」の具体的な性質――いったい誰が、いつ、どういう形で創り上げたのか――とは、いったいどういうものなのでしょうか。

実は、今回取り上げた「蘇民将来譚」は収載されているテキストは、伝説の陰陽師として私たちにも馴染みのある、あの安倍晴明が撰述したといわれています。
……まぁ、早々にネタばらしをすると、そんな訳はなくて、後世、何者かが安倍晴明が撰述したという体(てい)で創り上げたものだろう、ということは実に江戸時代からいわれているのですが[※7]。
ともかく、伝説の陰陽師・安倍晴明が撰述した! と触れ込んでいることからもわかるように、このテキストは陰陽道と深く関わっていることは間違いありません。

今回のコラムはここまでとし、次回はこの「蘇民将来譚」を収載しているテキストについて少し詳しく取り扱っていきたいと思います。
そのテキストの名は『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)』、通称『簠簋内伝(ほきないでん)』といいます。
またもやディープな話になるかもしれませんが……ご容赦ください。

(補注)
[※1]七夕については、近世以来そのまま「七夕祭」「七夕の節句」と称されてきたましたが、近年になって「笹の節句」という表現で表されることもあるようです。
[※2]冷泉為人編『五節供の楽しみ』(淡交社、1996年)参照。
[※3]元日ではなく人日が五節句となったのは、江戸時代に入ってからといわれています。定説では、徳川幕府が「式日」を定めるにあたって、年始の元日は五節句の一としてではなく、それ単独で(つまり別格扱いで)「式日」とし、その代わりに、当時から広く知られていた人日を新たに五節供の1つとして加えたといわれています。
[※4]乞巧奠とは、織女(いわゆる織姫)にあやかり女子が機織 (はたおり)などの手芸や詩歌が上達することを願う祭のこと。当時の貴族の邸宅では、その子女たちが織女・牽牛(いわゆる彦星)の会合と自身の手芸・詩歌向上の願いを梶の葉に書きとどめていたと言われており、それが現在の短冊につながったと言われています。
[※5]紀元前5世紀頃の中国の説話がその元となっています。
費長房という様々な秘術をおさめた道士に仕えていた桓景という人が、長房から「今日はお前の家族全員、赤い袋の中に呉茱萸の実をいれて腕にかけ、どこか高い所にみんなで昇り、酒などを飲みなさい」と言われ、その通りにした。その後、家へと帰宅したところ家畜がみな死んでいたため、驚いて長房にその訳を尋ねたところ「家畜はお前たち家族の身代わりとなって死んだのだ」、と返答があった。以来、9月9日には高い所へ昇り、食事をすることが習わしとなった――これが重陽に登山をする由来譚になります(中村喬『中国の年申行事』平凡社、1988年)。なお、「呉茱萸」は日本ではあまりなじみのないミカン科の落葉小高木のこと。その実は吐き気や頭痛に効能があるとされ、「呉茱萸湯」という漢方薬の原材料となっています。
[※6]ここでいう「二六の秘文」とは何なのか、未だに詳細はわかっていません。近世後期の国学者・平田篤胤は、「二」とは「ベイ(薬師如来の種子(しゅじ))」と「五芒星」の二字、「六」を「蘇民将来子孫」の六字だと推察していますが(平田篤胤『牛頭天王暦神辨』)、その推察を検証する手立ても今のところ確立できていない状況です。
[※7]近世中期に垂加派の儒学者として知られていた谷泰山の『泰山集』によると、この「蘇民将来譚」が収載されているテキストについて、当時の陰陽頭・安倍泰福は(そこに記述されている内容からして)安倍家の知識ではなく、恐らくは真言僧が創作したものだとの見解を示していたと記録されています。また谷よりやや後に活躍した暦学者・西村遠里も「真言家の説」であることは疑いないと示しています(以上、中村璋八「簠簋内伝について」(同『日本陰陽道書の研究 増補版』、汲古書院、1999年))より)。

追記:
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コラム連載の著者略歴
鈴木耕太郎
1981年生まれ。群馬県 旧勢多郡大胡町(現・前橋市)出身。
立命館大学文学部、同大学院文学研究科修了。博士(文学)。
専門は国文学(特に中世神話研究)・宗教民俗学。
卒業論文時より一貫して牛頭天王信仰に関連するテキストの分析を研究テーマに据えている。
日本学術振興会特別研究員(DC)・京都西山高校国語科非常勤講師・京都西山短大非常勤講師を経て、2018年より公立大学法人 高崎経済大学 地域政策学部 講師。
近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。
twitterを始めております(アカウント名は @tcuek_suzuki )

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