第3回 牛頭天王の謎

牛頭天王信仰の拠点

前回から一ヶ月以上、間が空いてしまいました。すみません。
大学も夏休みに入ったので、家族でゆっくり休んでいました。

…………すみません、嘘つきました。上に書いたことは、単なる私の願望です。
 
自慢ではありませんが、私は夏休みの宿題を最後の最後まで溜め込むタイプでした(どうです。本当に自慢じゃないことでしょう)。
で、そういう悪い癖はオトナになってからも改善されず、今に到っています(少し骨が折れる仕事は〆切ギリギリまで先延ばしにして、とりあえず目の前のことに追われてしまうという感じ……)。
今年は夏休みの宿題ではなく、夏休み以前からの「宿題(=仕事)」の〆切が夏休み突入と同時にどんどん迫ってきまして……結果、このようにコラムの更新が遅れてしまったわけです[※1]。
と、言い訳にもならないことはここまでにして、本題に入っていきたいと思います。

図「木造牛頭天王半跏像」木津川市 松尾神社所蔵(京都府立山城郷土資料館寄託)


まず、前回のまとめでは「祇園社祭神としての牛頭天王」について触れると述べました。
で、実際に書いていたのですが、なかなか筆が進まない……。というのも、そもそも牛頭天王という存在がいつから確認できるのかを述べた方が書きやすいということに気づいたのです。そこで、今回は前回の予告からやや変更して、牛頭天王が日本でどのように信仰され始めたのかについて論じたいと思います。

前回、牛頭天王と京都市東山区に位置する八坂神社について触れました。
おさらいになりますが、八坂神社は江戸時代まで祇園社、あるいは祇園感神院と呼ばれており、そのときまで祭神は牛頭天王でした。
こうした牛頭天王を江戸時代まで祀っていた神社というのは、祇園社に限りません。たとえば、尾張の津島天王社(現在の愛知県津島市・津島神社)や播磨の広峰社(現在の兵庫県姫路市・広峯神社)なども、京の祇園社に匹敵する牛頭天王信仰の一大拠点でした。
そして、これら祇園社や津島天王社、広峰社などは中世から近世にかけて各地に勧請されて(=神仏の分身、分霊を他の地に移して社・祠などに祀られて)いき、結果として日本各地で牛頭天王は信仰対象となったのです。
さて、上記の文章に下線を引いたのには理由があるのですが、とりあえず今はあえてご説明しません(何となくはおわかりになるかとは思いますが)。

とにかく、京の祇園社・尾張の津島天王社・播磨の広峰社などが拠点となって、牛頭天王は各地で信仰の対象として受け入れられていったわけです。
では、そもそもこの牛頭天王への信仰は、誰が、どこで、どのようにして始めたのでしょうか?

謎多き出自

鎌倉時代初期に編纂されたと考えられる古辞書・十巻本『伊呂波字類抄』の中に「祇園」という項目があります。これは「祇園社」のことなのですが、その中には祇園社祭神である牛頭天王について以下のような文章が確認できます。

牛頭天王の因縁は、天竺より北方に国有り。其の名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。其の城に王有り。牛頭天王、又の名を曰く武答天神と云ふ。(後略)

天竺、すなわち今のインドの北側に国があり、その国の中にある城の王が牛頭天王だというのです。「天竺より北方」とはずいぶんアバウトな書き方ですが(日本も一応、天竺より北側に位置しますが)、少なくとも「九相」とか「吉祥」とかいう地名から、日本ではないことは確かなようです。
つまり、十巻本『伊呂波字類抄』が編纂された段階では、牛頭天王は日本で生まれた神ではなく、インド北方がその出自だと考えられていたことがわかります。このように牛頭天王=渡来神(海外から伝えられてきた神)という認識は早くからあったようです。

では、いったいどこから牛頭天王はやってきたのでしょうか?
実はこれがまったくわからないのです。天竺より北方とは書いてありますが、インドにも中国にも、牛頭天王なる神の足跡はたどることができません。つまり、その出自は秘密のベールにおおわれている訳です。

では、この牛頭天王なる存在が文字資料として初めて確認できるのはいつからでしょうか。
現時点で確認できる「牛頭天王」を示した最古の資料は、承徳元年(一〇九七)に済暹という仁和寺僧が著した『般若心経秘鍵開門訣』(般若心経の注釈書)のようです[※2]。ここでは、古代中国の高僧であった羅什により「仏説薬師如来牛頭天王経」なる経典が作られていたことが記されています。
残念ながら、この経典は現在伝えられていません。しかし、羅什が作成した経典にその名が記されているならば、当然、古代中国でも牛頭天王は信仰されていたと考えるのが普通です。
……しかし、実際にはそう簡単に言えないのです。どういうことかといえば、現存しないものの「仏説薬師如来牛頭天王経」の内容からして、どうも羅什が作成した体裁を取りつつ、実際は日本で作成されたいわゆる「偽経」だったのではないかと推察できるからです。

以上をまとめるとどうなるかというと、

1:牛頭天王は渡来神だといわれてきた(少なくとも鎌倉初期にはそのように認識されていた)。

2:しかし、インドや中国、朝鮮半島などでは「牛頭天王」なる存在が信仰の対象とされていた足跡を見出すことができない。

3:平安時代後期に成立した日本の文献(般若心教の注釈書)には、「牛頭天王」の名を確認することができる。
また当時は(日本で創られた偽経と推察できるが)経典の中にも位置づけられていた。
しかし、結局牛頭天王がどこの出自であり、誰が祀り始めたのかなどは不明である。

祇園社祭神・牛頭天王

では、先ほど記した牛頭天王信仰の拠点ともいえる祇園社・津島天王社・広峰社ではいつ頃、どのようなタイミングで牛頭天王が祀られるようになったのでしょうか。
実は津島天王社や広峰社については資料がそこまで残されておらず、確固としたことはいえません。その点は京の祇園社も同様なので、いつ頃から祀られ始めたのかについては残念ながら答えることができません(この辺は推測に推測を重ねることはできるのですが、そうなると研究というより、私個人の「想像」で終わってしまう可能性があるので……控えます)。

それでも平安後期以降、いくつかの資料には祇園社の祭神に関する言説がいくつか見られます(先の『伊呂波字類抄』などもその一つといえます)。
その中でも着目したいのが、平安後期に成立した歴史書『扶桑略記』および歴史書『本朝世紀』の記述です。
以下に見るのは、この2つの書が共通して取り上げている、延久2年(1090)10月14日に起きた祇園社火災に関する記事です。なお、この2つの書の成立については詳しくはわかっていませんが、『扶桑略記』が先に成立し、1世紀ほどを経て『本朝世紀』が成立したと考えられています。この点が実は重要となってきます。

『扶桑略期』延久2年10月14日条  

感神院の大回廊、舞殿、鐘楼、皆悉く焼亡す。但し天神御体は取り出し奉りて……(後略)

『本朝世紀』久安4年(1148)3月29日条  

延久二年十月十四日(中略)火出で来りて宝殿焼失す。(中略)牛頭天皇の御足焼損す。(後略)

まったく同じこと(祇園社の火災)について書かれているので、内容も当然重なります。
しかし、大変奇妙なことに『扶桑略記』にはあって『本朝世紀』には確認できない、その逆に『本朝世紀』にはあって『扶桑略記』には見られない記述があります。それが傍線部の箇所です。

『扶桑略記』には「天神御体取り出し」たと記されています。注目すべきは「御体」という表現で、これは神像、すなわちご神体などをあらわす際に使われます。事実、平安時代後期にまとめられた『類聚符宣抄』という法令集(過去、朝廷や太政官により発令された命令文が集積された書)の中で、「祇園天神堂」なる表記を確認することができます[※3]。つまり、祇園社は祇園天神堂とも称されていたことがわかるのです。
となると、当然、天神というのはそこにお祀りされていた主要な神、つまり祭神ということになります。

一方、『扶桑略記』より後に編纂された『本朝世紀』には、「天神」なる祭神の存在は確認できません。代わりに見られるのが、「牛頭天皇(表記は原文通り)」なる存在なのです。こちらも「御足」と敬意を示していることから、恐らくは神像/ご神体の類であることは想像がつきます。
これとは別に、鎌倉時代初期に九条道家という人が著していた日記『玉蕊』にも、やはり過去に起きた祇園社の火災ということで延久2年のものが取り上げられています[※4]。ここには「大壁に五頭天玉並びに婆利女の御体、埋められて御座す。(中略)但し左右の御足、焼損し給ひて(後略)」と書かれているのです。「五頭天玉」とは牛頭天王のことであり、婆利女は前回のコラムで示した、龍王の娘にして牛頭天王の后となった婆利采女と考えて間違いありません。
なぜ壁に埋められていたのか、という点は結構大きな問題なのですが(現在、私も調べているところですが)それはひとまず置いておいて、やはりこの2体の神像は壁から取り出され何とか事なきを得た、ただ両足が焼けてしまった、というのです。これも『本朝世紀』の記録と重なるところがあります。

しつこいようですが、『扶桑略記』も『本朝世紀』も、延久2年10月14日に起きた祇園社での火災について記しているわけです。それにもかかわらず、片方では「天神」、片方では「牛頭天王」とあって祭神の名前が一致しないのです。
いったいどういうことなのでしょうか?

……と、今回のコラムはここまで。
ちょっと内容が濃すぎたかもしれませんが……次回はこのつづきなので、すみません……もっと濃くなります(笑)。
今しばらく、牛頭天王をめぐるディープな話にお付き合いください。
そのうち、ちょっと軽めな話もさせていただきたく思います。

(補注)
[※1]:もちろん、これは私個人の話であり、大学教員・研究者が全員そうだということではありません。あと、さもたくさん仕事を請け負っているように書いていますが、おそらくは研究者としては一般的な業務量なのではないかと思います。

[※2]:井上一稔「平安時代の牛頭天王」(『日本宗教文化史研究』15巻1号、2011年)参考。

[※3]:『類聚符宣抄』巻三「疫癘事」より天徳2年(958)5月17日条。なお、ここでの表記は祇薗天神堂となっています。

[※4]:『玉蕊』承久2年(1220)4月14日条。ここでは大外記という役職についていた中原師重なる人物が過去の例として延久2年の祇園社火災について取り上げています。

[図]:木造牛頭天王像(木津川市松尾神社所蔵・山城郷土資料館寄託資料)山城郷土資料館より画像提供を受けています。


コラム連載の著者略歴
鈴木耕太郎
1981年生まれ。群馬県 旧勢多郡大胡町(現・前橋市)出身。
立命館大学文学部、同大学院文学研究科修了。博士(文学)。
専門は国文学(特に中世神話研究)・宗教民俗学。
卒業論文時より一貫して牛頭天王信仰に関連するテキストの分析を研究テーマに据えている。
日本学術振興会特別研究員(DC)・京都西山高校国語科非常勤講師・京都西山短大非常勤講師を経て、2018年より公立大学法人 高崎経済大学 地域政策学部 講師。
近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。

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