第8回 農耕神としての牛頭天王

疫病を制御する最強の神 牛頭天王とは何者か ‐ 鈴木耕太郎氏の連載コラム

気づけば丸々2か月強更新が途絶えておりました。
読者の皆さま、ご無沙汰しております。お元気でしょうか。
私は新年度も始まって元気いっぱい、というわけにいかないのが悲しいところです。
なぜ更新が遅れたかというと……端的にもろもろの〆切に追われておりました。恥ずかしい限りです。

とにかく、すでに桜も散り、日によっては夏日を迎えている今日この頃(もちろん、これも場所によるかもしれませんが)。
そんな時期にぴったりな牛頭天王のエピソードはなにかないかな、と考えていたのですが、なかなか思いつきません(本当は3月3日にあわせて書こうと思っていたことがあったのですが……すみません)。

どうしたものかと散歩をしながら思案していたところ、近所の農家さんのお庭で、何かの苗がいくつも置いてあるのを目にしました。
そうか、これから本格的に作物の植え付けやら耕作やらが始まるんだなとなんとはなしに思ってその場を通りすぎたとき、牛頭天王が農耕神・牛馬神として祀られている地域もあることを思い出しました。
コロナ禍で外出もなかなかままなりませんが、気分転換の散歩はやはり良いものです。ということで、今回は農耕神・牛馬神としての牛頭天王に着目していきたいと思います。

なぜ、農耕神・牛馬神なのか?
さて、牛頭天王が疫病を広める恐ろしい行疫神であり、だからこそ疫病を抑えることのできる防疫・除疫神にもなり得ることは以前にも書きました。
ただ、先にも記したように地域によっては農耕神・牛馬神として祀られていたことは、当該地域を除けばそこまで知られていることではありません。
あくまで私の知る限り、という限定をつけますが中国地方および四国の一部において、牛頭天王を農耕神、あるいは牛馬神(畜産の神)とする傾向があるように思います(もし、当該地域以外で農耕神としての牛頭天王が祀られていたらぜひ私までお知らせください)[※1]。
しかし、なぜ牛頭天王=農耕神となったのでしょうか?

――と、ここまで書いてみて、ふと思ったのですが「牛頭天王」のことを一切知らない方からすれば、
「牛頭天王って牛や馬の神様なんだ。へー。」
と特に疑問も持たず、すんなり受け入れられるようにも思えてきました。
なぜって、その神名が「牛」頭天王であり、「牛」の文字が入っているのですから。
むしろ、牛頭天王の基本的な性格(神格?)が「行疫神」かつ「除疫・防疫神」であるということの方が「意外」と思われるかもしれません。

そうです。なぜ牛頭天王が農耕神・牛馬神なのかと問うたとき、単純に思い浮かぶのが牛頭天王の「牛」の要素です。
歴史的な背景に照らせば、西日本における牛耕の歴史があるからに他なりません。
広く知られているように、明治時代まで牛馬といえば肉食用ではなく専ら農耕のために利用されてきました。いわゆる牛馬耕です。
ただ、ひとことで牛馬耕といっても、西日本では牛を使った牛耕が行われ、東日本では馬耕が行われていました。

その影響もあってか、明治期に入り日本でも肉食が広まると、西日本では身近にいた牛を食すようになったともいわれています(一方、東日本で馬肉が主流にならなかったのは、肉量が取れなかったためであり、雑食で早く食肉となる豚が重宝されるようになったようです[※2])。

このように農作業を行ううえで西日本においては、牛は貴重な動力であり、同時にその家におけるかけがえのない財産ということになります。
牛馬神とはまさにそうした牛や馬を守る神であり、それはつまり農耕の利益をもたらす神といえます。
さて話を戻します。ではなぜ、農耕神・牛馬神として牛頭天王が祀られたのか。

もう言わずもがなかとは思いますが、おそらくは牛頭天王が「牛頭」天王だからではないかと推察されます。
つまり、その神名(「牛の頭」の天王)から連想して牛を守る牛神、さらにその牛を用いる農耕神として信仰されるようになったというのが、一番単純な理解になります。

とはいえ、ここで話を終えてしまっては面白くありません。ということで、ここからは少し踏み込んでそれ以外の可能性についても探っていきましょう。

「神農」と牛頭天王
さて、皆さんは「神農」をご存じでしょうか。
古代中国において人々に初めて農耕を教え、また1日に70回も何らかの「中毒」になりながらも自ら率先してさまざまな植物や飲料水を口にして、人体にとって益をなす植物(薬草)や飲料水を見極めたとされる、伝説上の帝王です。
日本においても神農は農業、あるいは医薬の祖神として神格化されてきました。

図 玉舟・画 神農図(三光丸クスリ資料館 所蔵)

図 玉舟・画 神農図(三光丸クスリ資料館 所蔵)

実はこの神農と牛頭天王とに深いつながりがあります。
平安末期に成立した『中外抄』[※3]の久安3年(1137)7月19日条には以下のように記されています。

久安3年7月19日。入道殿の御前に祗候す。
(中略)また、仰せて云はく、「祇園天神は何なる皇の後身ぞや」と。
予(筆者註:中原師元)、申して云はく、「神農氏の霊か。件の帝は牛頭なり。但し、故忠尋僧正の説には、王子晋の霊なり」と云々。
仰せて云はく、「神農氏なり。神農氏は薬師仏と同体なり」と。 

おおまかに現代語訳にすると以下のようになります。

久安3年7月19日。入道殿(藤原忠実)のもとをご機嫌をうかがいに訪問した。
(中略)また入道殿がおっしゃるに、「祇園天神というのはいかなる帝が生まれ変わったお姿なのか?」ということである。
私(中原師元)が申し上げたのは「神農の霊ではないでしょうか。かの帝は牛頭でした。ただ、故・忠尋僧正の説によりますと、王子晋の霊といいます」ということだった。
(すると入道殿が)おっしゃるには「神農であろう。神農は薬師仏と同体である」ということだった。

先に示した神農図をご覧いただければわかるように、確かに神農の頭には2本の「角」のような出っ張りを確認することができます。
これを藤原忠実(入道殿)は「件の帝は牛頭」だと表現しているわけです。

ところで、『中外抄』に出てくる「祇園天神」とはナニモノなのでしょうか。
祇園、といえば……そう、祇園社=現在の八坂神社(京都市東山区)のことです。
この祇園社の祭神が牛頭天王であったことは繰り返し紹介してきました。
この祇園天神とは、祇園社の祭神を指します[※4]。

つまり、祇園天神=神農であり、祇園天神=祇園社祭神=牛頭天王であるならば、
牛頭天王=神農
という同体関係がここに成立するのです。
実際に『中外抄』以外でも、東密(真言密教)の事相書である『覚禅鈔』[※5]でも、

祇園牛頭天王
|
神農

と記されています。
さて、神農と牛頭天王、共通点は牛頭すなわち角が生えていることと(もっとも、牛頭天王の場合は顔とは別に牛の首(頭)がそのまま生えていると考えた方が良いのですが)そして、神農が自ら「実験台」となって薬草となる植物を見つけていたというエピソードは、まさに「除疫・防疫」もっといえば「無病息災」といった牛頭天王に通じるところがあります。
ただ、忘れてはならないのは先にも記したように神農は古代中国の人々に農耕を教授したとされる伝説の皇帝だということです。
つまり、神農と牛頭天王とが結びつくということは、牛頭天王もまた農耕神として認識される素地が出来上がったということに他ならないのです。

残念ながら、牛頭天王と神農との同体説を根拠に牛頭天王=農耕神だとのべるような文書・言説は確認できません。
しかし、中国・四国地方では農耕神としての牛頭天王の信仰が確かに存在していたことを考えると、神農の存在もまた無視できないのです。

それにしても、なぜ神農は牛の角とも称されるような角が生えていたとされたのでしょうか。
また、なぜ牛頭天王は「牛頭」なのでしょうか。
次回はなぞ多き「牛頭」について迫ってみたいと思います。

(補注)
[※1]真弓常忠編『祇園信仰辞典』(戎光祥出版、2002年)内の「全国の祇園祭と蘇民将来信仰」は大まかではあるものの、全国各地の牛頭天王信仰の特徴をとらえるのに有用です。

[※2]大久保潤「お肉といえば西は牛、東は豚 農耕用の動物が違った 東の馬、量少なく普及せず」『日本経済新聞』2017年2月11日(現在は日経スタイル 暮らし&ハウス内にて閲覧可能。https://style.nikkei.com/article/DGXKZO12714730Z00C17A2W02001/ 最終閲覧日:2021年3月23日)。

[※3]摂政・関白・太政大臣を歴任した藤原忠実の談話を大外記職にあった中原師元が筆録した書のこと。上下2巻。保延3年(1137)より仁平4年(1154)までの間の有職故実に関することや人物の逸話などについて記してあります。

[※4]祇園天神をめぐっては、やや複雑な議論がなされています。すなわち、祇園天神とは最初から牛頭天王を指すのだという意見と、祇園天神と牛頭天王とは本来別の存在だったが、平安時代中頃に習合しいつの間にか同体関係になったという意見にわかれているのです。前者に関して代表的な論考としては、中井真孝「祇園社の創祀と牛頭天王――今堀太逸氏の所論に寄せて――」(同『法然上人絵伝の研究』思文閣出版、2013年)があげられ、後者に関する代表的な論考は今堀太逸「牛頭天王と蘇民将来の子孫」(同『本地垂迹信仰と念仏』法藏館、1999年)があげられます。ただ、いずれにせよ『中外抄』成立時には祇園社祭神と牛頭天王とが同体関係にあったことは確かなようです。

[※5]鎌倉初期に真言僧・覚禅により著わされた書。東密の事相(=実際に修行を行う際にどのようにすれば良いかの説明)に関する書で、諸々の仏や菩薩の法、および、諸経の法などについてまとめられています。


コラム連載の著者略歴
鈴木耕太郎
1981年生まれ。群馬県 旧勢多郡大胡町(現・前橋市)出身。
立命館大学文学部、同大学院文学研究科修了。博士(文学)。
専門は国文学(特に中世神話研究)・宗教民俗学。
卒業論文時より一貫して牛頭天王信仰に関連するテキストの分析を研究テーマに据えている。
日本学術振興会特別研究員(DC)・京都西山高校国語科非常勤講師・京都西山短大非常勤講師を経て、2018年より公立大学法人 高崎経済大学 地域政策学部 講師。
近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。

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