第7回 年神信仰と牛頭天王

歳神とは
あっという間に、1月8日。もう松の内も明けてしまいました……。
とはいえ、近畿など西日本では松の内とは1月15日の小正月までを指します。
そして、江戸時代初期までは全国的に小正月までが松の内だといわれてたのです。[※1]
つまり、まだ地域によっては正月が続いている! 
ということで……遅ればせながらではありますが……

皆様、明けましておめでとうございます。
本年も、相変わらず牛頭天王のことについて書き進めてまいります。
お付き合いのほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

さて、今年は STAY HOME ということで、年末年始とずっと家に引きこもっておられた方も多かったことでしょう。
年末はデパートなどでバーゲンに出かけ、家に帰ってきたら大掃除、テレビを見ながら除夜の鐘を聞き、年が明けたら家族揃って初詣、お雑煮や御節を食べながら午前中はゆっくりして、そのあと初市に行ってみる――こんな何気ない当り前の日常(いや、正確には正月でしか味わえない、年に一度の非日常)が、いきなり失われたことに、戸惑い、落胆、怒りにも似た感情を抱いた方もいらっしゃるかと思います。
本当にCOVID-19のいち早い終息を牛頭天王に祈らずにはいられません。

このような状況ですので、あまり正月気分に浸れなかった方もいらっしゃるかと思います。まったくもって微力ではありますが(そして今さらではありますが)、少しでも正月気分を味わっていただくために、正月にまつわる牛頭天王の話を書いていきたいと思います。

皆様のなかには、門松やしめ飾りなどを飾り付けていた方もいらっしゃるでしょう。この門松やしめ飾りについて、そもそもどのような意味があるのか、ご存じでしょうか。
……といっても、実際この手の話題は毎年どこかしらのテレビ等で(それこそ年末年始にかけて)触れられことも多いので、ご存じの方も多いかと思います。
そうです、門松にせよしめ飾りにせよ、正月に来訪する神=歳神様を迎え入れるための祭具だと考えられています。門松は歳神が降り立つための依代(=神が寄り付くための媒体となるもの)であり[※2]、しめ飾りは歳神が来訪するための目印である、といわれています。

このことを踏まえると、正月はSTAY HOMEという生活様式はむしろ江戸時代頃まで一般的だったともいえます。つまり、歳神が来訪してくるにもかかわらず、家を空けてしまっては失礼にあたると考えられていたからです(とはいえ、元日に氏神様へ初詣に行く、あるいは元日に恵方に位置する神社へ参拝する、などは江戸時代にも行われていたようです)。
 
しかし、そもそも歳神とは何者なのでしょうか。
民俗学者・柳田國男は歳神とは祖先の霊であると指摘しています[※3]。
この柳田説は今日に至るまで広く支持されているわけですが、歳神と称される神々の形態、それを迎え入れる側の態度・儀礼などは各地域により異なっており、正月に来訪し福を呼び込む神、という以外では一元的な定義は難しいようです(有名なところでは、秋田のナマハゲや能登のアマメハギも歳神だと考えられています)。
このように歳神といっても、各地域で多様な形態をもって信仰されていますが、その中でもその年の恵方(その年の縁起の良い方角)と結びついているのが、歳徳神(としとくじん)信仰です。歳神=歳徳神を恵方に向かって祀ると1年間福徳を授かることができる、というこの信仰は今でも多くの地域で残っています[※4]。
 
暦注書『簠簋内伝』の世界
実はこの歳徳神と牛頭天王とは、深いつながりがあるのです。
そのつながりを顕著に示しているのが『簠簋内伝(ほきないでん)』と呼ばれる書物です[※5]。この書は、いわゆる暦注書(暦の注釈書)――すなわち「この時期にこの方角では〇〇をすると良い」、「この時期のこの方角では●●をしてはならない」といった暦や方位方角に関する事象についてその吉凶を解説すること(=暦注)に重きを置いて作られた書です。
ただし、『簠簋内伝』は単に各種の暦注が並べられている書ではありません。
全5巻あるうちの巻一・巻二では、前半部に長い物語(信仰や事物の起源を語る「神話」)が記されているのです。
そして、その「神話」世界を基にした暦注が後半で示される、という特徴があります。いわば「神話」と暦注とが深くリンクしているわけです。

とはいえ、具体的に述べないとイマイチよくわからないですよね。

実はこの『簠簋内伝』の巻一前半には、このブログでも紹介してきた牛頭天王と蘇民将来の説話、つまり「蘇民将来譚」が記されています(「蘇民将来譚」については第2回第4回のブログを再度ご覧ください)。
なお、細かい点では『簠簋内伝』の「蘇民将来譚」と、これまで見てきた『釈日本紀』の「蘇民将来譚」ではさまざま違いがあります。そしてその違いに大きな意味があるのですが……この話をすると、ディープでマニアックな世界に再度足を踏み入れることになるので、またの機会としましょう(笑)。

とにかく、暦注書である『簠簋内伝』巻一の前半に牛頭天王を主人公とする「蘇民将来譚」が記されている……ということは、巻一後半の暦注と「蘇民将来譚」の内容とがリンクしていることになります。では、どのようにリンクしているのでしょうか。巻一の中で最初に示される暦注を例に見てみましょう。

一、天道神(てんどうしん)の方[※6]
正月南行 二月西南行 三月北行 四月西行 五月西北行 六月東行
七月北行 八月東北行 九月南行 十月東行 霜月東南行 雪月西方
右、天道神は牛頭天王なり。万事に大吉。此の方に向きて胞衣(えな)を蔵す、鞍置き始め、一切の求むる所、成就の所なり。

ご覧のように1月は南、2月は西南、3月は北、4月は西、5月は西北……といった具合に各月ごとに特定の方角が示されています。これらは「天道神」なる暦の神(暦神)が司る方角であり、「万事に大吉」で「一切の求むる所、成就(求めることはすべて叶う)」と記されています。
すなわち、この天道神の方角こそ最も良い方角であり、必然的に天道神なる神は暦神の中でも最高の力を持つ神だということができます。そして、下線部にもあるようにその最上の暦神である天道神=牛頭天王だと記しているわけです。

このように「蘇民将来譚」に登場する人物(神)を、それぞれ暦神と同体視だと説くことで「蘇民将来譚」と暦注とがリンクする、もっといえば牛頭天王信仰と暦の神々との信仰とがリンクすることになるのです。

前置きが大変長くなりましたが(私の悪い癖ですね……)、歳徳神と牛頭天王とのつながりとはどのようなものかを見ていきましょう。

頗梨采女=歳徳神
牛頭天王が后に迎えた龍王の娘――これまでこのブログで取り上げてきた「蘇民将来譚」では、この龍王の娘について具体的に名前を記してきませんでした(『釈日本紀』所収の「蘇民将来譚」には彼女を呼びあらわす特定の呼称は示されていません)。
ただ、『釈日本紀』以降に成立した各種の「蘇民将来譚」の中では、龍王の娘は「頗梨采女/婆利采女/波利采女(はりさいにょ)」という名が定着しています。ここでは『簠簋内伝』の表記に従い、頗梨采女とします。
『簠簋内伝』の「蘇民将来譚」でも、牛頭天王と結婚し、八王子を産むという重要な役割を担っている頗梨采女ですが、暦注ではどうでしょうか。
「天道神の方」に続く、以下の暦注に着目しましょう(ただ、暦注の具体的記述は大変細かいので今回は省いています)。

二、歳徳神の方
(中略)
右、此の方は頗梨采女の方なり。八将神の母なり。容顔美麗にして忍辱慈悲の体なり。
故に尤も諸事に之を用ふべきなり。

ご覧のように、ここで示されている暦注は、歳徳神=歳神に関するものです。歳徳神もまた恵方を司っているわけですから当然、暦神と見なすことができます。
この歳徳神ですが、平安時代末期から吉方を司る神として各種の暦注に記されてきました。それらの暦注を見ると、先ほど確認した天道神よりも強大な力を持つ暦神と認識されていたようなのです。
というよりも、『簠簋内伝』における天道神(=牛頭天王)の位置づけが、非常に独特だともいえます。『簠簋内伝』以前の暦注書では、天道神はそれほど目立つ存在として位置づけられていないからです[※7]。
この点についても、また別の機会に論じたいと思います[※8]。
ともかく、『簠簋内伝』以前から非常に強大な力を持つ暦神・歳徳神が下線部の通り頗梨采女と同体視されているという点が重要です。

ところで、この『簠簋内伝』は中世から近世前期にかけて、各地で広く受容されました。従来とは異なる新しい暦の世界を示したこともあってか、近世前期には暦の注釈書である『簠簋内伝』をさらに注釈する『簠簋抄』と称される書物が次々に刊行されてきます。
このことからも、『簠簋内伝』がいかに幅広く読まれていたかが伺えるわけです。
例えば、下の図1「歳徳神八将神図」を見てみましょう。

図1 「歳徳神八将神図」所蔵者:寳光井英彦氏


製作年代は不明ですが、恐らくは近世に描かれたと思われるこの図は、中心にいる女神を八柱の神が取り囲む構図となっています。この中心の神こそ歳徳神=頗梨采女であり、その周りを囲んでいるのが八将神=(牛頭天王と頗梨采女の間に産まれた)八王子です。
こうした構図で歳徳神が描かれること自体、『簠簋内伝』ないし『簠簋抄』の影響が強かったことの証拠といえます。なぜなら、『簠簋内伝』以前の暦注では、歳徳神と八将神との接点は見出させないからです。
さらに、こうした頗梨采女+八将神を描いた図像は他にも複数確認できることから(たとえば図2)、歳徳神(歳神)=頗梨采女という同体関係も広く定着していたと考えられるのです。

図2 「歳徳神八将神暦道図」所蔵者:寳光井英彦氏

さて長々と書いてきましたが、歳徳神=頗梨采女という同体関係の受容にどのような意味があったのかを、簡潔に述べましょう。
つまり、正月に歳神を迎えるという、その当時の人々からすれば例年当たり前に行ってきた非日常的行為が、広く牛頭天王信仰(正確には天道神をはじめとする暦神信仰)として組み込まれることになったのです。
そして、こうした牛頭天王信仰と歳神信仰との融合が、地方においてはさらなる新たな牛頭天王信仰/歳神信仰を創造していくことになります。

新たな歳神信仰=牛頭天王信仰
文明14年(1482)に成立した『牛頭天王御縁起』という縁起を例にしましょう。
現在、東北大学附属図書館が所持しているこの縁起には、『簠簋内伝』のような歳徳神=頗梨采女という同体関係は示されていません。
しかし、この縁起の最後には以下のような記述が確認できます。

此本懐、年ノ初、八王子皆牛頭天王ノ王子マテ御座ス間、少モ疑ヒ申ヘカラス。

 
年の初めに牛頭天王の(そして頗梨采女の)王子である八王子が「御座す(おわします)」、つまり各家へ訪れ、滞在する、というのです。そのため、「此本懐」=この縁起に記されている内容を「少モ疑」ってはならないと述べています。
実は、この縁起の中での八王子はそれぞれ強力な行疫神(=疫病を広める神)であることが示されています。仮に八王子らが訪れている正月に、縁起の内容を疑う=牛頭天王への信仰をおろそかにする、ことになったら……行疫神・八王子による恐ろしい仕打ちが待ち構えていることは容易に想像がつきます。

これだけ見ると、『簠簋内伝』と『牛頭天王御縁起』とはまったく交わることのない別々の書のように見えます。しかし、実際は『牛頭天王御縁起』本文と『簠簋内伝』とはかなり共通した記述が確認できるのです。
つまり、この2つのテキストは、確実に何らかの影響関係があったといえます。
しかし、最終的にはまったく新しい歳神信仰=牛頭天王信仰が創造されていったのです。
こうしたケースは、『牛頭天王御縁起』のみにとどまりません。
もしかしたら、皆さんの周囲でも年始に牛頭天王を祀っていた、などといいうケースが見つかるかもしれません。
牛頭天王といえば、夏の祇園祭・天王祭のイメージが強いのですが、実際には暦の信仰と結びつくことで正月をはじめ、年間を通して祀られていた地域もあるのです。

新年早々、長文になってしまいました(すみません)。
次回は、よりコンパクトに、かついつもとはややテイストの異なるコラムになる……ハズです。それでは、また次回の更新をよろしくお願いします。

(補注)
[※1]江戸時代のはじめまでは、松の内は1月15日でした。では、なぜ1月7日になったのか。いくつかの説があります。
①仕事始め(倉開き)が1月7日だったので、それにあわせるようになった。
②徳川三代将軍・家光の月命日が20日で、本来1月20日に行われていた鏡開きが1月11日に行うことに変更された。それに伴い、松の内も短縮された。
③江戸では放火など火災のリスクが高かったため、燃えやすいしめ飾りを1月の半ばまで放置することを懸念し、短縮した。
とはいえ、西日本を中心に未だに松の内は1月15日とされているところが多いのも事実です。ただ、最近は元日から営業するお店などがあることから、正月三が日を過ぎると実質的に「正月も終わり」という感覚になってきていますね……。

[※2]なお、「依代」という概念自体、提唱されたのはそこまで古いものではありません。「依代」概念が広まったのは、民俗学者・国文学者である折口信夫の論考「髯籠(ひげこ)の話」(初出は『郷土研究』第3巻2・3号、1915年 および『郷土研究』第4巻9号、1916年)を初発とします。なお、「髯籠の話」は現在、『折口信夫全集』2巻(中央公論社、1995年)に所収されており、読むことができます。

[※3]柳田國男『祖先の話』(角川書店(角川ソフィア文庫)、2013年)。

[※4]有名なものとしては、京都市の神泉苑で祀られている歳徳神があげられます。また自宅にて「歳徳棚」を恵方に向けて設置し、しめ飾りや鏡餅などを供えるのは、まさに歳徳神信仰だといえます。

[※5]正確には『三国相伝陰陽管轄(さんごくそうでんいんようかんかつ) 簠簋内伝金烏玉兎集(ほきないでんきんうぎょくとしゅう)』といいます。残念ながらいつ、誰が作成したものか、まだ詳細はわかっていませんが、恐らくは南北朝期までに宮廷に仕える陰陽師ではない、陰陽道の知識をもった民間の宗教者が作成したのではないかと考えられています。

[※6]なお、『簠簋内伝』と題した書物でも、それぞれを比較すると微妙に記述が異なっていたりします。今回は、現在広く普及している『続群書類従』第31輯(しゅう)上 雑部に収められたものを用いています(なお、方位については傍注で十二支表記でも示されているのですが、今回は省いています)。

[※7]実は牛頭天王=天道神という同体説を示しているのは、『簠簋内伝』だけではありません。京都にある妙法院が所持する通称「神像絵巻」には、牛頭天王に関する記述が見られるのですが、その中に「天道神 牛頭天王」と記されています。この「神像絵巻」の奥書から南北朝期の観応元年(1350)3月11日に成立したものだとわかるのですが、先の注にも記したように『簠簋内伝』の成立が不詳であるため、どちらが初出であるのかは断言しがたい状況にあります。

[※8]この点については、拙著『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年)の第4章で詳しく触れています。もしよろしければ、お手に取っていただければ幸いです。


コラム連載の著者略歴
鈴木耕太郎
1981年生まれ。群馬県 旧勢多郡大胡町(現・前橋市)出身。
立命館大学文学部、同大学院文学研究科修了。博士(文学)。
専門は国文学(特に中世神話研究)・宗教民俗学。
卒業論文時より一貫して牛頭天王信仰に関連するテキストの分析を研究テーマに据えている。
日本学術振興会特別研究員(DC)・京都西山高校国語科非常勤講師・京都西山短大非常勤講師を経て、2018年より公立大学法人 高崎経済大学 地域政策学部 講師。
近著に『牛頭天王信仰の中世』(法藏館、2019年7月)がある。